江戸時代になると、徳川幕府の五街道整備において、距離の短い箱根峠ルートが重視された。芦ノ湖畔には箱根の関が設けられ、幕府防衛のための関と位置付けられた。(しかし関所として取締りが厳重で厳しかったのは新居の関で、箱根の関は、比較的緩やかだった。)関の守備は小田原藩が担当した。
幕末には、佐幕派の遊撃隊と明治政府に恭順していた小田原藩兵との間に関所をめぐり激しい戦闘が行われ、関の大部分が戦火で焼失した。
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