江戸時代後期に書かれた『底倉記』によると、脇屋義助の孫・新田義則(義隆とも)が南朝再興のため挙兵し敗れた際に、底倉の木賀彦六左衛門を頼って潜伏中、応永10年(1403年)に打ち取られたとあり、当時より温泉があったことが伝えられている。『相州文書』によると、天文14年(1545年)には、湯治中に村人を使役に使うことを禁じるお触れ(湯治禁制)が後北条氏より出されている。また、天正18年(1590年)の秀吉の小田原攻めの際には夜営地となり、伊達政宗が幽閉されたと言われている。
文化年間1812年の『箱根七湯の枝折』には、蛇骨沢湧泉群では沸騰点に近い弱食塩泉が大量に湧出し、口に含むと塩気がするとある。天保13年(1842年)の「箱根七湯図」には、湯宿として、 萬屋(孫左衛門)、梅屋(又左衛門)、蔦屋(平左衛門)、仙石屋(丈助)の4軒が挙げられている。宿は蛇骨川に沿って八千代橋方向から萬屋、梅屋、蔦屋、仙石屋と並び、1881年(明治14年)の大火以前はいずれも茅葺だった。
1874年(明治7年)には底倉―木賀間の道路が開削され、東京からアクセスのいい夏の避暑地として賑わった。1893年(明治26年)に再び大火に見舞われたが、梅屋、蔦屋、仙石屋の3軒が復興し、いずれも湯滝、高楼付きの建物に建てなおした。しかし、関東大震災により、3軒とも倒壊した[11]。その後再建され、第二次大戦中は疎開先として使われた。戦後、蔦屋、梅屋、仙石屋が営業を再開したが、その後いずれも閉館した(蔦屋は2006年に別の経営者によって「つたや」として屋号が引き継がれた)。
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